織田信貞 (左京亮)
織田 信貞(おだ のぶさだ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、旗本。織田信長の九男[2]。
![]() 織田信貞像(岐阜市歴史博物館蔵) | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
生誕 | 天正2年(1574年) |
死没 | 寛永元年6月6日(1624年7月21日) |
改名 | 人(童名)、信貞 |
別名 | 通称:藤四郎、雅楽助、法名:宗恵 |
戒名 | 常照院殿法厳宗恵大居士[1] |
墓所 | 大徳寺塔頭総見院 |
官位 | 従五位下・左京亮 |
主君 | 豊臣秀吉→徳川家康→秀忠 |
氏族 | 織田氏 |
父母 | 父:織田信長、母:土方氏(土方雄久の娘) |
兄弟 | 信忠、北畠具豊、神戸信孝、羽柴秀勝(於次)、勝長(信房)、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次、信正[2]、ほか |
子 | 信次、貞置、女(織田重治室、後に離縁し、壬生忠利室)、女(笹治正時[3]室) |
略歴編集
信貞の母は『寛政重脩諸家譜』では「土方雄久の女」と記載があるが、土方雄久は天文22年(1553年)生まれのため、年代的に齟齬があるとする歴史家も存在する[2]。一方で『織田家雑録』の中では青山氏[4]が母であるとの記載がある[2]。
天正10年(1582年)、父・信長が本能寺の変で死去したため、埴原長久(加賀守)に養育されたという。信長の死後、埴原は織田信雄に仕えた。成長した信貞は、豊臣秀吉の馬廻の一人となり、近江国の神崎郡、蒲生郡内に1,000石の所領を与えられ、従五位下・左京亮に叙任された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伏見城攻撃に参加し、戦後に改易された[5]。
『寛政重脩諸家譜』では、兄[7]信高と共に東軍に馳せ参じるべきところだったが、間に合わなかったので、戦後に美濃路を凱旋中の徳川家康に拝謁したとし[8]、この時に信長の子であることに免じて死罪を逃れたようである。
後に家康に召し抱えられ、寺領を食邑として与えられた。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方として従軍した。
寛永元年(1624年)に死去。享年51。
京都市東山区にあった上行寺に葬られたが、同寺は1914年に久遠寺と合併し、上行山妙祐久遠寺と改称した。墓地は織田家の菩提寺である京都大徳寺塔頭総見院にもある。
子孫編集
室は信長妹と津田元嘉との間の女であり、いとこ同士の婚姻にあたる[2]。家督は次男の貞置が継いだ。長男の信次は病弱のために家を継げなかったが、信次の子の貞幹は貞置の養子となって尾張藩の家臣として仕えた。貞置は叔父の織田有楽斎(長益)が興した茶道有楽流を継承し、養子の貞幹(尾州有楽流)ら多数の門人を抱えた茶人としても有名である。子女は2人で、一人は織田重治に嫁ぎ、一人は笹治大膳に嫁いだ[2]。
脚注編集
参考文献編集
- 堀田正敦国立国会図書館デジタルコレクション 「織田氏」 『寛政重脩諸家譜 第3輯』 國民圖書、1923年 。
- 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、1981年、52頁。